Way of LOVE
monument

message of The Holy Bible


『 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 』

ローマ8:31-39/新改訳


理由。


※お知らせ

私「teru」は4年弱の間ネットで活動し、また実生活でも長年「エホバの証人」として活動して来ました。しかし、先日「エホバの証人」の禁令に抵触し「排斥処分」となりました。

そこで、HNを「teru」から「えふちゃいるど」に変更し、あたらしいHPを開設しました。


※排斥に関して。

排斥理由に関しては、個人的な事柄なので書くことはできません。

僕は、自分は何も悪くはないというつもりはありません。

ですから、僕は自分から罪を告白したし、全部素直に告白したつもりです。そして、自分が排斥になったことに対して不服はなく、上訴はしなかったし、排斥処分はしかたのないことだと思っています。不当な「判決」だとは全然思わないんです。

いや、むしろ自分は排斥になった方がいいと思ったくらいです。であるからこそ、自分から告白したのです。
ですから、排斥の決定自体は僕のあずかり知らない会衆の決定ですが、これは自分で望んだことである、と言えます。

「本当にあなたは悔い改めているのか?」と問われれば、僕はエホバの証人の組織また仲間に対して、自分は表面的にはエホバの証人の要求にかなうものとして見せかけてきたわけですから、・・・いわば「騙して」来たわけですから、そういう面で申し訳ないことをしたと心から反省しています。

神さまには、自分は神さまの嫌われる選択をしたと思いますし、自分のしたことに対しては祈りで許しを求めました。そして、自分が迷惑をかけた人には申し訳ないと心から涙が出た。

しかし。

僕は、自分の選択、そして自分自身を恥じてはいないのです。確かに自分は立派な者ではないし、JWの規格外かもしれない。でも、僕は悩んだ末自分はこう生きるしかないと、そう思って自分の生きかたを決めました。

だから、褒められたことではないにしても、僕は自分を恥ずかしいとは思わないのです。


※JWに対する僕の思い。

そもそも僕が会衆を移ったのは、JWをやめたいと思ったらです。・・・そう、やめるつもりだった。

全時間の仕事にしたのも、実家から出て一人暮らしを始めたのも、そうしないと自分はJWをやめられないと思ったからです。
一人でも生きていけるような算段をして、そして自然消滅を狙っていました。

しかし、こうなってから思うことですが、勇気のない僕には自然消滅も出来なかったと思う。こうでもなければ・・・強制力がなければ、僕はカタをつけられなかっただろうなって思う。

・・・僕はJWは、合う・合わないがあると思うのです。
JWが間違っているとか騙しているとか、そういう思いはあまりないけど、僕が「研究させられた」子供のころから強く思ったのは、僕には「JWは合わないな」ということでした。

言い変えれば、僕の幸せにとってJWは役に立たない。ってこと。

でも、実家にいた時は、母の手前・・・特に父の激しい迫害にあっても必死でJWをやっている母の「必死さ」の手前、僕がやめるとは言えなかった。
それでも、僕は長年をかけてJWと自分とがなんとか折り合う道を探してきました。

僕は前は、自分がJWに感じている疑問や自分が感じている苦しみは、きっとJWではなく自分の側に問題があるんだろうと思ってきました。

つまり、自分が「JWとしてきちんとしていないから」そうなんだ、と思ったのです。個人研究が足りないから、黙想が足りないから、あるいはエホバと自分との個人的な関係を培っていないから・・・。

でも、ある時あるきっかけを通して、「果たしてそうなのだろうか?」と思ったのでした。つまり、間違っているのは自分ではなく、JWの方なのではないか・・・と。

それ以来、ネットを調べたりいわゆる背教的な文書を調べたりして、自分の頭で中立な立場で調べ・考える日々が始まったのでありました。JWとしては、模範的に振舞いながら・・・。

その結果、最初は確かに「JWに騙された」という思いと怒りがやはりこみ上げて来た。おかしいのは自分ではなく、エホバの証人だったんだ、と。僕の失われた青春を、20年を返せと思った。

・・・でも今は、一方的にエホバの証人が悪いとか間違っているとまでは思わないのです。JWにも一定の役割がある、と思っています。しかし、「僕には合わない」・・・そう思う。

今は反JW的な見方ではなく全くノーマルに、神さまが本当に望んでいることは何か、それを知りたいと思うし、神さまは僕を導いているし愛している、と感じています。

今だに、JWについてはなにが真理なのか、研究する日々です。結論はまだ出ていません。


※排斥。そして、その後。

しかし一つ思ったのは、僕はやはり最初の環境が悪かったと思う。それは、2世として育てられたがゆえに、自分からすすんで学ぶのではなくて、強制的に信仰を押し付けられたこと、それは僕にとっては「悲劇」だったのでした。

もしかしたら僕の「JW不信」は、「不自由な立場」のゆえ本当の意味で学ぶ機会を逸していたのかもしれないとそう思う。

だから、僕はもう一度「自由な立場」でもう一度エホバの証人を「試して」みたいと思う。長老にも話したけれども、自分はもう一度、初めから・・・今度は自分の意思で・・・もう一度再スタートを切りたいと思う。

復帰を目指して集会にも行きたいと思うし、ノーマルな気持ちでJWについて調べてみようと思う。今のところの正直な展望としては、これだけ長い期間悩んで調べて考えた末こうなっているので、「気持ち・立場の変化」だけでJWの信仰に対する純粋の信仰をもてるかは、厳しいかなとも思うのですが、ね。
やるだけやってみようと思います。

今度こそ、自分の意思と自分のペースで。


今や僕は排斥されて、いわばウソで固めたJW人生をすべて投げ捨てることが出来ました。

周りの圧力にまけてしぶしぶ受けた僕のバプテスマ。
見せ掛けだけの開拓奉仕。
自分の考えとポリシーと思いを押し殺して、「演じた」長老職。

もちろんそれが全てウソだったとは思わないし、それなりに僕は誠実にやってきたつもりですが、それでもそんな「ニセモノ」をあとにして、本当の自分をもう一度発見しに出かけたい。
そう思うのです。

もしかしたら、JWに戻るかもしれないし、もどらないかもしれない。でも、僕は信仰という面で、ようやく自分自身からも自由になった、そんな気がします。


notice

※下記に新しいHPのご案内を書いています。しかしご利用に当たっては以下をお読みいただき、ご理解いただいた方だけご利用ください!

新しいHPのwebmaster(管理人)は、「teru」改め「えふちゃいるど」です。しかし「えふちゃいるど」は、現在エホバの証人を「排斥中」です。そして新しいHPの内容には、いわゆる背教的な内容を含む予定です(現役時代はさすがに遠慮があった)。

ですから、現役のエホバの証人の方が利用するのは、エホバの証人の教えからすると「ふさわしくない」行いであると考えられます。

特に、BBSやメールなどであいさつの言葉をかけること、ましてや交友をもつことは、エホバの証人では禁止されていると思われます。

王国宣教2002/8月号折込「親族が排斥されている時、クリスチャンとしての忠節を示す」の記事では、次のように書かれています。

『・・・神の言葉は、クリスチャンが会衆から追放された人と交際や交友を続けないように命じて、こう述べています。

だれであれ「兄弟と呼ばれる人で、淫行の者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、ののしる者、大酒飲み、あるいはゆすり取る者がいれば、交友をやめ、そのような人とは共に食事することさえしないように・・・その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」。(コリ一5:11,13)

マタイ18章17節に記録されている、「[追放された]人を、あなたにとって、諸国民の者また収税人のような者としなさい」というイエスの言葉もこの点に関係しています。

イエスの言葉を聞いた人たちは、当時のユダヤ人が異邦人といっさい親交をもたず、収税人を部外者として遠ざけていたことをよく知っていました。それでイエスは追随者たちに、追放された人と交わらないようにと教えていたのです。−「ものみの塔」誌、1981年11月15日号、17-19ページをご覧ください。

これは、忠節なクリスチャンは、だれであれ会衆から追放された人と霊的な交友を持たない、という意味です。しかし、それ以上のことも関係しています。神の言葉は、「そのような者とは共に食事をすることさえしないように」と述べています。(コリ一5:11)

それでわたしたちは、追放された人との親ぼくのための交友も避けます。それには、その人を加えてピクニックに行ったり、パーティーを開いたり、球技をしたり、ショッピングや劇場に出かけたり、家であれレストランであれ一緒に座って食事をしたりすることも含まれるでしょう。

排斥された人と話すことはどうでしょうか。聖書は生じ得るあらゆる状況を取り上げているわけではありません。しかしヨハネ第二10節は、エホバがこの問題をどう見ておられるかを知る助けになります。そこには、「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば、決して家に迎え入れてはなりませんし、あいさつのことばをかけてもなりません」とあります。

この聖句について、「ものみの塔」誌、1981年11月15日号、24ページには次のような注解が載せられています。「『こんにちは』という簡単なあいさつがきっかけとなって会話に発展したり、場合によっては友情に発展したりすることがあるものです。わたしたちは排斥された人に対し、そのようなきっかけを作りたいと思うでしょうか」。

まさに「ものみの塔」誌の同じ号の30ページに述べられているとおりです。「事実からすれば、クリスチャンが罪にふけって排斥を余儀なくされる時、その人は本当に多くのものを失います。神のみ前における是認された立場、・・・・・・以前クリスチャンの親族との間で保たれていた多くの交わりを含め、兄弟たちとの喜ばしい交友などを失うのです」。』
王国宣教2002/8月号折込「親族が排斥されている時、クリスチャンとしての忠節を示す」/ものみの塔聖書冊子協会

この点、みなさんはどう思われるでしょうか。それはみなさん個人個人の良心におまかせします。もしそれでも(エホバの証人の教えにそむいても)、僕に個人的関心を示してくださるならば、それは僕にとってとてもうれしいこと、です。

僕の方から僕と交友を持つことを誘うことはしません。その証が、今までのHP・BBSの閉鎖であり、そして万が一間違うことのないために(僕が排斥になったということをしらずに交友を持つJWがいないように)、HNも変更しました。そして、現役系のHP・BBSにはもう行かない予定です(ROMはさせていただきますけど)。ご理解いただけないかもしれませんが、これが僕の最大限の誠意です。

そして新しいHP・BBSはそのことを理解し、そして自分のことは自分で責任が取れる方だけに利用して頂きたいと思います。

※最後に。

むかし、金八先生というドラマがありました。
その中で当時はやっていた「不良」が言ったセリフ、
「俺たちは腐ったみかんじゃねえ!」というセリフを、今僕は実感しています・・・。
いや、文句とか反省してないんじゃなくて、単に、さびしいなってことで。・・・独り言です。

いままでお世話になった全ての愛すべきJWの仲間たちに心からお礼を申し上げます。最後にこう言う形でお別れしないといけないことをお許しください。

オフ会やBBS上での交わり、本当に楽しかったし自分にとってはすばらしい思い出です。
いままで、本当にどうもありがとうございました。
みなさんの上に、神さまの愛とお導きがあることをお祈りしています。


新しいHPのアドレス
http://www.f-child.com/

by:「teru」改め、「えふちゃいるど」@wabmaster

2003/2/1最終更新

The manufacturing and the copyright: えふちゃいるど